ISSEKI

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独特の「自由」思想と「珍獣」的ライフスタイルに共鳴。『スピノザ 人間の自由の哲学』感想まとめ

 

『スピノザ 人間の自由の哲学』を読んだ感想をまとめます。

お役に立てれば幸いです!

 

【注意】

つかみきれていない部分、ズレた解釈をしている部分もあるかと思います。あくまで「個人的な意見」「ご参考まで」ということでお願い致します。

 

 

目次

 

 

手に取ったきっかけ

 

哲学者「スピノザ」の名前自体は、以前から知っていました。P.G.ウッドハウス(イギリスの小説家)の作品にたびたび登場するためです。

 

ただし、その位置付けは「頭の良いキャラクターが愛読する『難解な』書物の著者」というものです。それが先入観となりスピノザの哲学をあえて学ぼうとしたことはこれまでなかったのですが、以下のSpotifyのポッドキャストを聴いて興味を持ち、読んでみることに(リンク先にて、導入部分が16分ほど視聴できます)。

 

open.spotify.com

 

入門書となる本書では、スピノザの哲学(思想)が単体ではなく、スピノザの「生涯」や「生きた時代」とも絡めつつ解説されています。物語のような平易な話し言葉で書かれていることも手伝って、終始興味を持って読み進めることができました。

 

本記事では、その中で特に印象に残り、「ぜひ覚えておきたい!」と感じた2点をまとめていきたいと思います。

 

*以下は「スピノザ」の名前が登場するP.G.ウッドハウス作品の代表例です。主人公のバーティーは、贈り物としてリクエストされたスピノザの関連書を求めて書店に赴きます。そこで思わぬ人物と遭遇し、予期せぬ(不都合な)事態へと発展することに。

 

 

印象に残った内容

①「滅多に見かけない」を志向する

 

この部分に関連するスピノザ哲学のポイントは以下です。

 

  • (1) 人は「自由意志」を持っていない:本質的に不自由(受け身)である
  • (2) その中で可能な限り自由(能動的)に生きるには、「理性」を身につけ、「理性」に従って生きることが必要
  • (3) ただし、そのような生き方は簡単ではない

 

上記3点について、順を追って説明します。

 

 

(1) 人は「自由意志」を持っていない

 

まず、1点目「人は『自由意志』を持っていない:本質的に不自由(受け身)である」についてです。

 

ざっくり言うと以下のようになります。

 

  • 人は、「自由意志」を持っていない:意向や衝動の原因(決め手)が存在する
  • その「決め手」を自覚していないため、何かを選択したときに「(自分の)自由意志で選んだ」と思い込んでいるに過ぎない
  • このため、人は、ただその時々に湧き出てくる「感情」に流されるまま(受け身で)生きている:本質的には「不自由」である

 

人はそのままでは「感情」に踊らされ続ける不自由な(受け身な)存在で、とはいえ「感情」そのものをコントロールしようとすることは「生きることそのものの否定につながりかねない」(p.314)ため現実的ではない。

 

そこでスピノザは、「感情」の元となる「観念(考え) idea」を整理する(捉え直す)ことで、生まれる「感情」を間接的にコントロール(適正化)するという構想をします。そしてそれこそが、本質的に不自由(受け身)な私たちにとって実現可能な「自由」な生き方であると説明されます(詳細は次項)。

 

この考えは、「感情・気分」を左右するのは「出来事」や「状況」(=外部)ではなく「自分の解釈」(=内部)である、という認知行動療法のカウンセリングで得た学びに通じると感じました。スピノザ哲学の影響があるのかもしれません。

 

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(2) 可能な限り「自由」であるには「理性」が必要

 

ひとはこうして、感情と結びついている観念の方をまず整理することで、感情をいわば搦め手から整理することができます。そしてそこに、憎しみに対して受け身になって流されている現状から、解放される可能性も隠されているのです。(p.317)

 

この「観念の整理」に必要なものが「理性」です。

 

スピノザのいう「理性 ratio」とは、「十全な観念の一大ネットワーク」(p.323)と説明され、生まれ持つものではなく身につけるもの、生涯を通じて磨き続ける必要があるものとして位置づけられています。

 

つまりスピノザのいう理性は、最初から人間精神のうちで働いている確固とした能力ではなく、面倒で地道な作業を積み重ねた果てに精神のうちにようやくぼんやりと出来上がっていく、問題を能動的に処理するための回路なのです。(p.324)

 

この「後天的に身につけ、かつ磨き続ける必要がある」理性という思想が、同じく認知行動療法の考え方との共通点だと感じました。

 

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認知行動療法のカウンセリングで学んだ「現実思考」が、スピノザのいう「理性」にあたるかと思います。「現実思考」も「理性」と同様、「完成形:ゴール」がないため宿命的に「磨き続け」ざるを得ないものです。

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スピノザは、後天的に身につける(かつ磨き続ける)「理性」に準拠した生き方をすることが、人間として可能な限り「自由(能動的)」に生きるためには不可欠だと説きます。

 

これが2点目の「その中で可能な限り自由(能動的)に生きるには、『理性』を身につけ、『理性』に従って生きることが必要」のあらましです。

 

そのような構想は、スピノザの主著『エチカ』後半部で提示されているとのことです。

(略)精神のうちに形成された十全でない観念を整理して十全化し、それによって受け身の状態から徐々に抜け出すという構想(p.323)

 

「十全な観念 idea adaequata をもつ」とは、簡単に言うと、「きちんと認識する」(p.314)こと。

きちんとしていない認識を、「理性」に従って「きちんと認識」し直すことで、生まれる「感情」を適正化し、それに影響される自分の言動を能動的に最大限コントロールしていく。

 

つまり、「自由意志」を持たない私たちにとって現実的に可能な「自由(能動的)」な生き方は、「感情」の元となる「観念」を「理性」によって適宜整理する(捉え直す)ことで実現できる、ということです。

 

十全でない観念を一つ一つ取り上げなおし、これを十全な観念へと組み換えていく。そしてこの作業を地道に繰り返していくことにより、それまで受け身の感情に流される一方だった人間のあり方が、感情を感情として持ち続けながらも自発的・能動的な方向に徐々に向けかえられていく。スピノザはそういう息の長い、しかし考えてみるとそれしかないような自分の感情との向き合い方を『エチカ』後半部で示そうとするのです。(p.315)

 

自由意志のない世界に、それでもある意味での自由が認められるとすると、この「みずから動く」というあり方こそ、そうした自由に他ならない、とスピノザは考えます。(p.319-320)

 

 

(3) ただし、そのような生き方は簡単ではない

 

前提が長くなりましたが、上記でも述べたように、2点目までは認知行動療法のカウンセリングで得た学びとの共通点が多く、言ってみれば(既知の)知識を「補強」しているような感覚でした。

 

心を打たれたのは、3点目「ただし、そのような生き方は簡単ではない」の部分です。

 

その『エチカ』は、しかし、次のような一文で終わります。


しかし、すばらしいことというのはみなそうなのだが、それは滅多に見かけない。それくらいむずかしいことなのである(第五部定理四十二注解)。(p.323)

 

最後の最後で、スピノザは自分の構想した「自由な生き方」が貫かれることは「『滅多に見かけない quam rara』し『それくらいむずかしい tam difficilia』」(p.324)と付け加えているそうです。

 

その理由を、本書では「わたしたちがこの世界で出会い、触発されるものごとは、厳密に見ればすべて一回限り」(p.325)だからと説明しています。

 

本書で紹介されていた「地震」(p.325)を例に挙げます。

それらは厳密に言えばすべて別々の地震であり、一つとして「同じ地震」などはありません。そのために、ある地震に対して「十全な観念:きちんとした認識」を持って能動的にふるまえたとしても、その「観念」が別の地震においても適切だとは限りません。

 

このように出来事はすべて「一回性」なので、それらすべてに「十全な観念」を持つような生き方を貫くことは「滅多に見かけない quam rara」し、「それくらいむずかしい tam difficilia」というのが、スピノザの考えのようです。

 

つまり人間は、自らの精神のうちにどんなに十全な観念を形成し、十全な観念のネットワークをどんなに張り巡らせていっても(つまりどんなに理性的になっても)、生きている限りまだ整理されていない現実世界の一回限りのものごとと接触し続けるし、したがって、まだ整理されていない感情に受け身で見舞われ続けるでしょう。

(p.327-328)

 

*そもそも「十全な観念」か否かの「丸つけ」を誰がするのか、またその(丸つけをする)人の適性を誰が判断(丸つけ)するのかといった疑問も存在します。その視点から言っても、「十全な観念」を持ち続けることは難しい(評価しようがないため)と考えます。

 

ただし本書では、個々の類似した出来事(例えば地震)には「共通する『仕組み』が存在するのもまた確か」(p.325)なので、「百点満点」は困難であっても、その「共通」部分に対応した行動をとることで「あらゆる地震災害に対し、多少なりとも能動的にふるまえるようになる」(p.325)と前向きに説明しています。

 

個々の出来事は「一回性」であっても、それに対する「観念」を整理する(捉え直す)際、他の出来事との「共通」部分はどこかという視点を持ち、そこに基づいた判断をすることで、ふるまいの精度は上げられ、同時に「理性」も磨いていける、ということだと思います。

 

「完璧」「百点満点」は非現実的だとしても、それらを志向しないことには、可能な限りの「自由な生き方」を実現することはできない。

 

おそらく到達することはできないけれどもそこを目指す。

なぜなら「自由」であるには、それ以外に道はないから。

 

そのことを希望とも絶望とも捉えず、皮肉るわけでも悲観するわけでもなく、「理想」と「実現可能性」をギリギリのところで両立させた、透徹した思想だと思います。

 

「『百点満点』にはなり得ないけれども志向する」ことは、気負わずに、しかし最善を尽くして建設的に生きることにつながると感じました。

 

 

②スピノザの奇特な生き方:「珍獣」扱い

 

肖像画を見る限り、スピノザは柔和で気が弱そうな性格に思えます。ですが実際は、生まれついたユダヤ人共同体から「破門」を受け、かといってキリスト教に改宗するわけでもないといった「当時としては奇特な生き方」を貫いていたそうです。

*「破門」された正確な理由については、「現在でもよく分かっていません」(p.67)とのことです。

 

本書には、そのような突飛な生き方をするスピノザを「珍獣」扱いし、好奇心に駆られて自宅に押しかけていく「見物客」が相当数いたことが推測されています。

 

破門という形でユダヤ教から切り離され、しかも[筆者注:ある「見物客」にとって]「本物の宗教」であるキリスト教に改宗してキリスト教社会に溶け込むそぶりも見せない。そういう当時としては奇特な生き方に努めている人物を、世間の暇人たちは放っておいてくれなかったようです。(p.88)

 

個人的な印象ですが、スピノザは「強い信念」や「反骨心」を持って宗教から離れたというより、自分の望み(自分の哲学)を優先した結果として、「珍獣」的ライフスタイルを「選びとる」ことになったのではと思います。

 

あくまで予想ながら、つい「人の目」や「世間体」を気にしてしまう私としては励まされる思いです。「人の目」よりも「自分がどうしたいか」を大切にしよう、自分の好きにしているのだから、一部からは「珍獣」扱いされたとしても仕方ないと受け入れよう、といった前向きな気持ちになりました。

 

まわりに多大な迷惑を掛けるわけではないなら、「人と違う」「風変わり」を恐れて自分の望みを抑えることはしない。認知行動療法のカウンセリングで学んだ「幸せの極意」に通じる生き方の一例を、本書から学び取ることができました。

 

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今回は以上です。

読んでくださってありがとうございました!

 

 

<今日のISSEKI>

「百点満点」にはなり得ない。でも志向する。