ISSEKI

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認知行動療法で「生き方」を変える! 学び【6】「自信」をつける方法:最も妥当でブレにくい「公正な自己評価」を積み重ねる

 

本記事は、筆者が認知行動療法のカウンセリング(120時間以上)で得てきた「学び」を、整理・凝縮してまとめたものです。

 

「自分を変えたい」と漠然と(または真剣に)思ったことのある方へ!

生きづらさを解消し、豊かに生きるための一助となれれば幸いです。

 

【注意】

以下は個人的なカウンセリング記録のノートを元にまとめたものです。筆者は「認知行動療法」を専門的に学んだわけではなく、正確な解釈をし損ねている恐れもあります。あくまで「個人的な知見」「ご参考まで」ということでお願い致します。 

 

目次

 

 

【本記事のポイント】 

  • 「人の目(他者評価)」はアテにならない:そのほとんどが「情報」と「公正さ」を満たさないために精度が粗い、かつ望むタイミングではもらえない
  • 「人の目(他者評価)」を基準に「自己評価」をするのは、自信や幸福感・活力の度合いを他者の「気まぐれ」に委ねること
  • 個人的な「情報」を最も持っている自分が、一般的な知識(情報)と「公正さ」を持って下す評価(公正な自己評価)こそ、いちばん妥当でブレにくい評価
  • 自信をつけてより良く(能動的に)生きるコツは、①「公正な自己評価」を積み重ねる、②人の目(他者評価)は「参考程度」にする、③自分なりの「公正さ:現実思考」を磨く

 

 

1. はじめに:前回の記事について

 

前回の記事では、「幸せの極意」実践における最大のハードルと思われる「人の目」について、「相手」と「場面」に応じて(選別して)気にすることが大切、といった内容をまとめました。

 

ポイントは以下です。

 

  • 「幸せの極意」とは、現実思考をベースに、大半のことでは「自分の本心に従う:自分本位で生きる」こと。目安:自分本位が7割(大半)、他人を優先が3割
  • 「否定的な意見・評価」はどちらにせよ防げない(3分の1の法則)ので、上記「幸せの極意」を実践し、肯定派である「相性のいい」人たちと絆を深めたほうが「楽」で、「楽しい」
  • 気にするのは「好きな人」や「利害関係がある人」、かつその人(たち)を巻き込む「場面」においてだけでいい

 

今回は、引き続き「人の目」に関連して、「自己評価」についても人の目(他者評価)はあくまで「参考程度」でよく、「公正な自己評価」の積み重ねこそが安定的な「自信」をつくる、といった内容を取り上げていきます。

 

*前回の記事はこちら!

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*「幸せの極意」については、こちら!

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2. 人の目(他者評価)がアテにならない理由

①「情報」と「公正さ」が不足している:精度がまちまち

 

人の目(他者評価)がアテにならない最大の理由は、そのほとんどが、「真の価値判断」に必要な以下2つの要素を満たしていない点にあります。

 

「真の価値判断」に必要なこと

  1. 情報:関連する個人情報(背景)や、必要な知識など
  2. 公正さ:現実思考・客観性、ありのままに見ることなど

 

「自己評価」を含め、物事の価値を適切に判断するには、予備知識となる「情報」と、対象をありのままに見る「公正さ」の2つが不可欠です。

 

ところが実際には、「情報」と「公正さ」を満たした「人の目(他者評価)」はごく少数です。「私」についての個人的な情報(背景)を把握できるのは身近な人に限定されます。さらにその人たちが、必要な知識や「公正さ」を常に併せ持って評価するとは限らないためです。

 

言い換えると、ほとんどの「人の目(他者評価)」とは、「情報」と「公正さ」が不足した状態で(吟味せず反射的に)下された精度の粗いものであり、「私」の言動や能力に対する、必ずしも妥当な評価ではありません。

 

例えば「メンタルを崩して仕事を辞めた」ことに対して、ネガティブな評価をされたとします。その場合、評価者には以下の例のように「情報」や「公正さ」が欠けていたのかもしれません。

 

  • 「情報」が不足:本人の体調、メンタル疾患に関する知識など
  • 「公正さ」が不足:評価者との「相性」が悪い(好みや価値観が合わない)、評価者にとって「都合」が悪い、評価者の「ご機嫌」が悪いなどの理由から、過度に批判的に見る(誰もが当然持っている「不完全な点」に注目する)

 

「情報」と「公正さ」の2点を満たさない「低評価」は、「限定的な情報」しか持たない人の「限定的な評価」あるいは「公正さ」を持たずに下された「不当な評価」に過ぎません。考慮に入れたり、まして傷ついたりする必要はまったくない、ということです。

 

*ほとんどの「人の目(他者評価)」は「情報」と「公正さ」を満たさずに(吟味せず反射的に)下されるため、精度がまちまち(ブレやすい)です。このことは「3分の1の法則」として、前回の記事にて紹介しています。

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②本質的に「気まぐれ」:常にもらえるわけではない

 

人の目(他者評価)がアテにならないもう1つの理由は、それが望むタイミングで得られるとは限らない点にあります。

「情報」と「公正さ」を満たす形で「高評価」されていたとしても、伝えてもらわなければわかりませんし、欲しいと思ったタイミングが来るたびに評価を仰ぐことは、お互いに(特に評価者にとって)面倒です。

 

人の目(他者評価)は、前項で取り上げたように「精度がまちまち」。さらに評価をもらう「タイミング」についても、他者の都合に左右されます。

つまりは本質的に「気まぐれ」なものなので、「アテにはならない」ということです。

 

 

3. 自信をつける方法

①「公正な自己評価」を積み重ねる

 

自己評価の度合いは、人生をどれだけ能動的に、生きがいを持って過ごせるかに深く関連します。「自分には価値がある」と思えることで「プラスの感情・気分」がつくられ、それらは「幸福感」や「活力」へと直結するためです。

 

「人の目(他者評価)」を基準にすることは、この重要な自己評価を、他者の「気まぐれ」に任せることと同義です。

「自己過信」にせよ「卑下」にせよ、現実的に妥当でない自己評価を持っていては、的確な選択をし、能動的に生きることは困難となります。「生き方」を左右する自己評価は、「人の目(他者評価)」の反映ではなく、「情報」と「公正さ」を満たした「公正な自己評価」であることが大切です。

 

「公正な自己評価」で「価値がある」と思うなら、「まわりの人が価値を感じるか」は関係ありません。「価値がある」としっかり評価する(ほめる)。成果や進捗があれば、その分の価値を認めて「プラスの感情・気分」をつくる。その繰り返しが、安定的な「自信」につながります。

 

*「プラスの感情・気分」については、以下の記事にて詳しく説明しています。

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②人の目(他者評価)は「参考程度」

 

私に関する個人的な「情報」を、最も持っているのは「私」です。身近な人でさえ、私以上に、私の履歴や感情などの「情報」を持つことはできません。そこに一般的な知識を加え、自分なりの「公正さ」を持って下す評価(公正な自己評価)こそ、最も妥当でブレにくい評価です。

 

「人の目(他者評価)」は、それがどの程度の「情報」に基づいているか、「公正さ」を持って下されたのかの2点を確認し、「妥当」と思われるものだけを考慮に入れる「見極め」が必要です。

 

前回記事では、「すべての人の目を気にする」のではなく、気にするべき「相手」を、その人を巻き込む「場面」でのみ気にする、といった内容をまとめました。

 

それと同様、「自己評価」についても、「すべての人の目(他者評価)を考慮する」のではなく、「情報」と「公正さ」の2点で照らし、「妥当」と思われる評価のみを「参考程度」に活用すること、あくまでベースは「公正な自己評価」であることが大切です。

 

 

③自分なりの「公正さ:現実思考」を磨く

 

「公正さ」を意識していれば、「現実に即さないことを都合のいいようにこじつける」あるいは「法律や最低限のマナー・道徳を無視する」といった独善は避けられます。

間違うことはあっても、自分なりの「公正さ」をそのつど改善することで、判断の精度は上げられます

 

「人の目(他者評価)」と「公正な自己評価」について、究極的に「どちらが正しいか」は確認しようがありません。ハッキリしているのは、「公正な自己評価」はブレにくいうえ、改善によって精度の向上も可能であること、そちらを基準にしたほうが「楽」で「楽しい」ということです。

 

以下は、先生の言葉です。

「人」に価値を認めてもらおうとするのではなく、「自分」に対して成果を出す(「公正な自己評価」を良くしていく)こと。

その過程で「人」からも評価されれば、「より嬉しい」というだけのことです。

 

*「公正さ」は、認知行動療法の大原則「現実思考」とも言い換えられます。「現実思考(とそれを磨くことの重要性)」については、以下の記事にて詳しく説明しています。

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4. 余談:自分の人生の「責任者」は自分

4.1. 判断する権利があるのは「責任が取れる人」だけ

 

人生をより良く(能動的に)生きるためには、「自己評価」の基準を、気まぐれな「人の目(他者評価)」から「公正な自己評価」へと切り替えること、自分なりの「公正さ:現実思考」の精度を上げていくことが大切です。

 

また、「責任者は誰か」という視点から見ても、自分の人生に関することを「自分」で決めることは「道理」です。判断を下す権利があるのは「責任者:責任が取れる人」であり、自分の人生の責任は、究極的には「自分」が取ることになるためです。

 

「責任」が取れる(リスクを負える)範囲に応じて、判断する「権利」あるいは「自由度」は変化します。取れる責任の範囲が広ければ自由度は高く、狭ければ自由度も低い。「自由」の代償が「責任」です。

 

言い換えると、自分で「責任」が取れる範囲内なら、何を選ぶかは「自由」です。「他人」は自分の人生の本質的な「責任者」ではなく、責任を持ってくれるつもりも(おそらくは)ありません。

 

「自分の​​本心は何か」を含め、自分の「情報」を最も持っているのは「自分」で、責任者も「自分」。個人的なことであればあるほど、他人の意見を聞く必要は「ない」ということです。

 

 

4.2. 「自責:自分で自分を責める」はいらない

 

前項で述べたように、自分の人生の「責任者」は自分です。能動的であれ受動的であれ、自分の判断の結果(例:責任)は、究極的には「自分」が受け取ります。

 

そのため、あえて「自責」をする必要はありません。「責任」は、自責の念があろうとなかろうと負うことになるためです。

 

例えば「寝坊」をすれば、「予定が狂う」「活動時間が減る」「約束に遅れて信用を失う」などの「責任」を取ることになります。

ここでさらに「自責」を行い、自己嫌悪や後悔といった「マイナスの感情・気分」をつくり出すことは「損」になります。

 

「ずる休み」や「食べ過ぎ」も同様です。「責任」はイヤでも負うことになるため、「自責」によって「マイナスの感情・気分」をつくる必要はありません。状況に応じ、「自責」ではなく「反省」や「改善」をして、今後に活かせばいいだけです。

 

 

4.3. 「幸せの極意:本心に従う」を素直に楽しむ

 

さらに言えば、「1. はじめに:前回の記事について」でも述べた「幸せの極意:本心に従う」を実践したとしても、そこで「自責」をしてしまっては台無しです。

これは「自責」によってつくられる「マイナスの感情・気分」が、「自分の本心」に従うことで得られたはずの「プラスの感情・気分」を打ち消してしまうためです。

 

「責任」を負うことによって「自由」を手にして「自分の本心」に従っても、その結果(プラスの感情・気分)が「自責」によって得られず、むしろ「マイナスの感情・気分」がつくられてしまうのであれば結果的に「損」です。

 

「自分の本心」に従ったなら、それを楽しむことが大切です。「責任」はどちらにせよ取ることになるため、あえて「自責」して「マイナスの感情・気分」をつくる必要はありません。

 

「寝坊」なら、「たくさん眠れてよかった」と素直に楽しむ。「食べ過ぎ」なら、「それくらいがんばった、おいしかった、また運動しよう」で楽しむ。「ずる休み」なら、「いっそ思い切り休もう、遊ぼう」で楽しむ。

 

以下は、先生の言葉です。

本心が「やりたい」と思うことを「素直に楽しむ」だけで、幸せに生きられます。

 

 

関連する先生の動画:自己評価を他人に委ねてはいけない理由


www.youtube.com

<動画のポイント>

  • 不安は「(自分には)対処ができない:自信がない」という思考から生じる
  • このため、「自信」と「不安」は常に反比例の関係にある
  • 不安への対処法:他者評価ではなく、「公正な自己評価」によって自信をつけていく。そのための練習をする。
  • 「公正」とは、等身大であること。過大評価も過小評価もしないこと

 

*先生から、「人の目(他者評価)が気になるのは、自分に自信がないから」との指摘を受けたことがあります。「テストで自分の解答に自信がないとき、他の人の解答が気になってしまう」ことと同じ原理とのことです。「公正な自己評価」を繰り返し、自分なりの「公正さ:現実思考」を磨いていくことで、自信をつけていく。そんな好循環をつくっていきたいと思います。

 

 

共感する名言 / 本の一節
 

①カフカ『変身・断食芸人』

これほど音楽に感動しているというのに、彼はやはり一介の虫けらなのだったろうか。

『変身』

 

誰だって連日連夜のべつまくなしに断食芸人のそばで番人をつとめることはできない相談だった。だから、誰ひとり自分の眼で、実際に中断されることなくまちがいなく断食が行われているかどうかをたしかめることはできなかった。ただ芸人自身だけがそのことを知っていた。つまり彼だけが同時に彼の断食に完全に満足することのできる観客であり得たわけだ。

『断食芸人』

*『変身』の一文は、「自己評価」と「他者評価」のズレ(自己評価はまずまずなのに他者評価は低い)を認識する苦痛に共感して切なくなります。一方で『断食芸人』の一節からは、「自分を評価できるのは、究極的には自分だけ」というドライですが至極もっともなメッセージを感じて勇気づけられます。

 

 

②ダフネ・デュ・モーリア『鳥 ー デュ・モーリア傑作集』

宗教家たちは、善と悪を語るとき、それぞれ異なった見方を示す。ある者にとっての奇跡が、他の者にとっては黒魔術となる。よき預言者は石を投げられたが、その点は呪術師も同じだ。ある時代に冒瀆的とされた言葉が、つぎの時代には聖なる言葉となり、今日の異説は明日の信条となる。

(p.184)『モンテ・ヴェリタ』

*「人の目(他者評価)はアテにならない」「物事への評価は、単に見方による(変転し得る)」点が痛烈に表現されています。「自分はどう思うか」を起点にする姿勢を持ちたいと感じました。

 

 

③ウルフ『ダロウェイ夫人』

他人があれこれ言うことなど、みな表面的、みな断片的。

(p.213)

*「人の目(他者評価)」を過度に気にして消極的になったとき、ぜひ思い出したい一文です。他人は「私」の一部を見て、よくよく考えずに(表面的・断片的に)意見をくれることがある。「参考程度」に聞けるようにしたいです。

 

 

④サマセット・モーム『月と六ペンス』

わたしが得た教訓はこれだ。作家の喜びは、書くという行為そのものにあり、書くことで心の重荷をおろすことにある。ほかには、なにも期待してはいけない。称賛も批判も、成功も不成功も、気にしてはならない。(p.15)

 

そう、わたしは過去の人間なのだ。これからも押韻二行連句で教訓的な物語を書きつづけよう。だが、わたしはあくまでも自分の楽しみのために物語を書く。ほかの目的をもって小説を書こうとする者がいれば、それは大ばか者だ。(p.17)

*この一節は、新聞の書評や自分の作品が読み継がれるかどうか(つまりは他人の評価)を実は気にしがちな語り手(=作者?)の「自戒」という印象を受けました。「自分のために書く(生きる)」という教訓は、「幸せの極意:自分の本心に従って生きる」と似ていると感じます。どちらも客観的な結果はどうあれ「自分」を満足させることはできるので、「絶対に失敗しない処世術」の一つだと思うからです。

 

 

⑤ショーペンハウアー『幸福について』

ところで、他人の目にどう映るかで、生き方の価値の有無が決まるとしたら、みじめだろう。英雄や天才の生涯の価値が、名声、すなわち他人の喝采で決まるとしたら、やはりみじめだろう。およそ生あるものは、自分自身のために、何よりもまず自分のために独自の生を営み生存するほうがよい。(p.175)

 

私たちの最大の楽しみは、称賛されることだ。けれども称賛する側は、あらゆる理由がそろっているときでさえ、嫌々ながら、しぶしぶ称賛している。だから、何はともあれ、自分で自分を率直に称える境地にたどり着いた人が、もっとも幸福な人である。他人に惑わされてはいけません。(p.177)

 

愚昧な人たちのあいだにひとり正しく洞察する人物がいるのは、教会の尖塔や時計台などに取り付けられた塔の時計がどれもこれも間違った時間に合わせてある町に、正確な時計をもつ人がひとりだけいるようなものだ。その人だけは、正しい時刻を知っている。だが、それが彼にとって何の役に立つのだろう。世間の人はみな、間違った時間をさす街の時計に合わせて暮らしている。それどころか、彼の時計だけは真実の時刻を告げているのを知っている人たちまでが、街の時計に合わせて暮らしている。(p.287)

*「自分のために独自の生」を営むこと、「自分で自分を率直に称える境地」にたどり着くこと。別の箇所では「最も大切なことは、『自分は何者なのか』ということ」(p.175)という一節もあり、「自分」を重視する認知行動療法との共通点を感じます。より良く生きるためには、「現実思考」を磨き続けることと同様、「自分は何者なのか」についても「考え続ける(かつ答えを出し続ける)」ことが必要と感じました。

 

*3点目の「間違った時間に合わせてある時計」の話は、間違ったことが語られていても絶望しないことを説いています。「たいてい結局は正しい判断が下されるのだから(略)ついにはほとんどみなが理解するようになると心得て、みずからを慰めればよい。もちろんその間は、辛抱しなければならない(p.286)」。これは「価値観」の問題であった場合、「時刻」のように決まった尺度がないため複雑になるかと思います。ただし「わかってくれる人は絶対にいる」(3分の1の法則)ことは確かで、それを心の支え(慰め)にすればいいと感じます。

 

今回は以上です。

読んでくださってありがとうございました!

 

 

<今日のISSEKI>
 

「人の目(他者評価)」は気まぐれなので、「参考程度」でOK。

「公正な自己評価」の積み重ねで「自信」をつけていく!