ISSEKI

「生きてよかった」を追究中。地に足をつけつつ「楽に、楽しく」暮らすための試行錯誤を発信します。

かわいくて、深い。心に響く「ムーミン」小説シリーズのことば・10選

本記事では、スウェーデン語系フィンランド人であるトーベ・ヤンソン著の「ムーミン」小説シリーズにおける、心に響くことばをご紹介します。

ムーミンと、そのパパとママ、たくさんの素敵な仲間たち。

全体的にまるみのある、かわいらしい姿形に加え、森や海など北欧らしい自然のなかで営まれる、彼らの暮らしぶりにも心惹かれます


とはいえ私が強調するまでもなく、ムーミンたちの魅力はそうした「見た目」や「道具立て」にとどまりません。

思わずクスッと笑ってしまう、個性あふれるキャラクターたちのやりとり。
作者の鋭い感受性をうかがわせる、ごく繊細な心理描写。
べったりしすぎず、お互いに、ほどよい距離を保って生きる姿。
平易で、さりげないからこそ、まっすぐ胸を突くような一節。

コミックスやアニメ、多種多様なグッズ展開の源流と言える「ムーミン」小説シリーズは、上記のような「喜び」や「癒し」、「豊かに生きるヒント」の宝庫です。

なかでも、とりわけ印象的だった「ことば」10選をまとめます。なにかしらのお役に立てれば幸いです!

目次

 

心に響く「ムーミン」小説シリーズのことば

①道や川ってふしぎだなあ

(道や川ってふしぎだなあ。ずっと先までつづくのを見ていると、遠くへ行きたくてたまらなくなっちゃう。どこまで行くのかなって、ついていきたくなるんだ……)
 スニフはそう考えました。

『ムーミン谷の彗星』(p.6)


物語の冒頭における、スニフの感慨。道や川などの無生物を、さも当然のごとく「生きもの」ひいては「仲間」とする、「ムーミン」世界ならではの表現が味わいを深めています。

スニフの素朴な心のつぶやきを読んだ瞬間、最後に子どものような好奇心を覚えたり、そぞろ歩いたりしたのはいつだったろうと、思わず自身をかえりみました。

目標志向や自制心、効率性や慎重さが必要な場面もありますが、ときにはぼうっとしたり、自分の気持ちと向き合ったり、ふいに芽生えた「こうしたい」を後回しにせず実行したりしなければ……と感じました。

「やりたい」と思ったことを、素直にやる。そうして本心に従うと「気が済む」。ただ気が済むだけであってもひとつの「成果」であり「価値」であり、「有意義」な振る舞いなのだ、と意識しながら。

*関連記事はこちら! 幸せの極意は「現実思考」をベースに「自分の本心」に従うこと、といった学びをまとめています。isseki-blog.com

 

②いや、もし今ぼくが引き返したら

(いや、もし今ぼくが引き返したら、二度とここへ来ようという勇気は起こらないだろうな。ぼくは一生、しげみの外をめぐりながら、中に入る勇気がなかったんだと自分にいい聞かせることになるんだろう)

『ムーミンパパ海へいく』(p.94)


ムーミンママの提案によって屋敷を離れ、見知らぬ島の「灯台」に移り住んだムーミン一家。その地にて上記のように、ひとり葛藤したムーミンは、意を決して、しげみの奥深くへと分け入っていきます。

なにかを「こわい」と思うこと。一方では、「あとになって、くよくよしたくない」といった別の「こわさ」から回避をためらうこと。結果として恐怖心を振り払えたか否かにかかわらず、私はムーミンのそんな姿に共感し、おのずと勇気づけられました。

直接的な「励まし」ではなく、また、誰かを鼓舞する意図すら持たないことばであっても、それに「共感」することで癒やされ、一歩踏み出すための元気をもらえるときがある。これこそ、読書の醍醐味のひとつだと感じます。

*「共感の効能」については、以下の記事の「共感する名言 / 本の一節」内の「③M.C.ビートン『アガサ・レーズンと禁断の惚れ薬』(他三作)」でも取り上げています。

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③きっとこの子はしばらくの間

 きっとこの子はしばらくの間、見えなくなっていたいと思ったのよ。トゥーティッキがいってたわよね、この子ははずかしがりだって。なにかいい方法が見つかるまで、そっとしてあげるのがいちばんいいと思うのよ。

「目に見えない子」『ムーミン谷の仲間たち』(p.157)


養育者である「おばさん」から皮肉を言われすぎて、姿が見えなくなってしまった女の子・ニンニは、見かねたトゥーティッキに連れられて、ムーミン屋敷を訪れます。

上記は、ニンニの事情を聞いたムーミンママが口にした一言です
。大げさに同情するでもなく、「無関係」と敬遠するでもないせりふに安堵を覚えると同時に、傷ついた心に接する際の、ひとつの心得を教えられた気がしました。

このような「おおらかさ」は、生きるうえで避け得ない「不都合」にたいする、「ムーミン」小説シリーズ共通の在り方だと感じます。

「彗星の接近」や「嵐」、「洪水」などの自然災害(外的な不都合)にせよ、「不安」や「恐れ」などの精神的な危機(内的な不都合)にせよ、
幸いにして難を逃れたり、持ち前の楽天主義によってそれを「気晴らし」に変えたり、時間の経過や偶然の出来事によって、さほど「不都合」とは思わなくなったり……ともかく、自分たちなりに過ごしているうち、「気がつくと」うまいぐあいに乗り切れている。克服のための努力どころか、「なんとかしよう」との意思すらないように思われるまま、持ち直すことも少なくありません。

姿が見えず、会話もできない状態だったニンニは、ムーミン一家との穏やかな暮らしに心を癒され、ついにはムーミンママを守るため、あの、ちびのミイでさえ感嘆するほどの「強さ」を発揮します。

明確で、しかも即効性の「解決方法」が存在する「不都合」は限られていること。そして成果は不透明でも、「いま、できるなにか」をたんたんと続けるほかない場面もあることに、あらためて気づかされました。

 

④ちょっと光をあててみましょう

 ちょっと光をあててみましょう。どんなものでも、暗闇の中では、おそろしく見えるのよ。

『小さなトロールと大きな洪水』(p.11)


暗がりから、のぞく二つの目。上記は、おびえるムーミンを落ち着かせるため、ムーミンママが口にしたせりふです。ムーミンママの言う通り、そこにいたのは、なんら害のない「小さな生きもの」スニフでした。

ごく当たり前のようで、その実、示唆に富むことばだと感じます。

この例からもわかるように、ムーミンママは、「冷静、かつ前向きに物事をとらえる」達人です。その柔軟さは、小説シリーズの随所に見られます。

たとえば、洪水によって屋敷が水没してしまい、偶然、流されてきた家(実際は「劇場」)に、そうとは知らず引っ越した際の一言。

 わけのわからないことだらけね。でも本当は、なんでもいつも同じようにあると思うほうが、おかしいのかもしれないわ。

『ムーミン谷の夏まつり』(p.54)


また、
大事にしていた「銀のおぼん」で遊ばれ、家具やお手製のジャムがなくなったうえ、散らかり放題のムーミン屋敷を目にした際のことば。

 人生って、ほんとにおもしろいものよね。銀のおぼんの使い方は一つきりだと、みんなが信じてきたのに、ぜんぜんべつの、ずっといい使い方があったのね。それから、みんなに「そんなにたくさんジャムを作って、どうするの?」なんていわれたけど──ちゃんと、ぜんぶ食べてもらえたんだわ(中略)それにね、あんまりしきものやら、こまごましたものが、ごちゃごちゃあるより、これぐらいが、家の中の風通しがいいのよ。おそうじだってらくになるしね。

『ムーミン谷の冬』(p.188)


以下は、そうしたムーミンママの建設的な態度を、象徴するような一節です。

(おかしいわ。くらしがうまくいきすぎるからといって、かなしんだり、まして腹を立てるなんて、おかしいわ。だけど、そうなんだからしかたないわね。かんじんなことはただ一つ、視点を変えてやり直すことね)

『ムーミンパパ海へいく』(p.35) 


とはいえ思考を切り替えるにあたっては、心の余裕と、ある程度の習熟が不可欠です。それゆえ「万能薬」ではなくても、この先ネガティブな感情にとらわれた際、ムーミンママの「名言」を内心でつぶやくことで、わずかでも自力で心を軽くできたら、と考えています。

*下記は、「ムーミン」小説シリーズでいちばん好きな「結び」のことばです。ここにも、物事を明るくとらえようとする精神が息づいています。

 ムーミン谷に、もう秋が来たのでしょうか。でも、それでなくては、春はまためぐってきませんものね。

『たのしいムーミン一家』(p.231)

 

⑤大切なのは、自分のしたいことがなにかを

「あたい、また眠くなっちゃったわ。ポケットの中が、いつもいちばんよく眠れるの」
「そうかい。大切なのは、自分のしたいことがなにかを、わかってるってことだよ」
 スナフキンはそういって、ちびのミイをポケットの中へ入れてやりました。

『ムーミン谷の夏まつり』(p.108)


ムーミン谷で一二を争う知恵者である、スナフキンの一言。自身の「原点」に立ちかえるため、折にふれて噛みしめたいことばです。

この名言と合わせて印象に残っているのは、私が妙に親近感を覚えてしまうキャラクター・フィリフヨンカのお話。

 しないではいられないということと、しなければならないということは、ちがうわよね。しなければということと、せずにはいられないということが同じだとは思わない……。

『ムーミン谷の十一月』(p.206)


恐ろしい目にあったせいで、好きだった「お掃除」ができなくなってしまったフィリフヨンカ。彼女は、気分転換のためにムーミン屋敷を訪れます。残念ながら一家は不在でしたが、そこに来合わせた訪問客らと過ごすうちにいつしか心持ちが変わり、「したくてたまらないことをすればいいんだわ」(同上・p.226)と言い切れるまでになります。

「自分のしたいこと」がなにかを知っていること。また、それを可能な限り実行に移すこと。その喜びを、訪問客のひとりである
ミムラ(ちびのミイのお姉さん)は、胸の内でいきいきと語っています。

(今だったら、どんなことだってできるわ。ま、なにもしないけど。でも、なんだって自分のやりたいと思ったことをするっていうのは、すてきよね!)

『ムーミン谷の十一月』(p.137)


もちろん、上記のスナフキンのせりふに象徴される在り方は、「いつでも自分の好き放題にする」ことを是としてはいません。

周囲の状況もある程度は考慮に入れ、かつ、結果として起こり得る不都合は引き受ける心づもりで「自分のしたいこと」をする。そのような「自律」の心地良さと覚悟が、スナフキンの控えめながらも明快な口ぶりにあらわれている、と感じました。


*トーベ・ヤンソン研究の第一人者である冨原眞弓さんも、訳書である『小さなトロールと大きな洪水』のあとがきにて、下記の一文をはじめとする解説をなさっています。

「自由」と「責任」。これこそムーミンたちの生きかたをいいあらわす特徴です。

『小さなトロールと大きな洪水』(p.103)

 

⑥自分できれいだと思うものは

「あれぜんぶ、きみのものなの?」
 スニフが小声でたずねると、スナフキンは関心なさそうに答えました。
「ぼくがここに住んでる間はね。自分できれいだと思うものは、なんでもぼくのものさ。その気になれば、世界中でもな」

『ムーミン谷の彗星』(pp.50-51)


ムーミンとスニフを「ガーネットの谷間」に案内したスナフキンの一言。

心惹かれるけれど、手に入らないなにかを「自分のもの」と考える。そこで実際に、所有権を主張することは誤りですが、そう「思う」だけであれば自由です。

スナフキンは、さらに言います。

 なんでも自分のものにして、持って帰ろうとすると、むずかしくなっちゃうんだよ。ぼくは見るだけにしてるんだ。そして立ち去るときには、頭の中へしまっておく。ぼくはそれで、かばんを持ち歩くよりも、ずっとたのしいね。

『ムーミン谷の彗星』(p.54) 


そもそもスナフキンは、帽子やハーモニカなど愛着ある品物のほかは、徹底して「持たない」主義。身の丈に合わないものを求めてやきもきしたり、所有物の維持・管理に消耗したりと、「持つ」ことには不都合もある、とわかっているようです。

自分にとって心地良いものを持ち、「むずかしく」なりそうなものの所有は、「頭の中」だけで楽しむ。ぜひとも見習いたい、豊かな在り方だと思います。

 

⑦生きるってことは、平和じゃないんですよ

 ヘムレンさんは、しめった砂の中に鼻をつっこんで、なげきました。
「これじゃあ、あんまりだ。どうしてなんの罪もないまずしい植物学者が、平和な一生を送れないんだろうか」
「生きるってことは、平和じゃないんですよ」
 スナフキンは、たのしそうにいいました。

『たのしいムーミン一家』(pp.100-101)


気圧計を取り戻そうとする「ニョロニョロ」の大群に襲われてしょげるヘムレンさんに、スナフキンは、人生の本質を突くことばをかけます。聞きようによっては打ちのめされそうな発言ながら、穏やかであっさりとした口調のせいか、私はむしろ気持ちが楽になりました。


上記のようなスナフキンの人生観は、「
生きることは、苦の連続」「人生は思い通りにはならない」といった真理を伝える仏教のことば「一切いっさい皆苦かいく」と相通じるように思います。

この「真理」に絶望するのではなく、「不都合があっても仕方ない」「できることをやろう
」と切り替えて、悠々と生きていく。そうした「発想」と「勇気」をもらった一節です。

*「一切皆苦」については、以下の記事の「『一切皆苦』という心休まるクールな教え」でも取り上げています。

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⑧ミイは、ひとりでやっていける子よ

「ミイは、ひとりでやっていける子よ。あたし、あの子に出会った人のほうが心配だわ」
 こう、ミムラねえさんはいいました。

『ムーミン谷の夏まつり』(pp.135-136)


ちびのミイが行方知れずになった際、姉であるミムラが口にした一言。せりふと、事もなげな態度に、作者のユーモアがにじんでいます。


ムーミンいわく「血も涙もないハードボイルド」(「目に見えない子」『ムーミン谷の仲間たち』(p.161))な言動によって、個性豊かなキャラクターたちのなかでも異彩を放つミイ。ムーミンママや、スナフキンとは別の意味で憧れています。

ミイの「タフさ」をあらわす発言として印象的なのは、「③きっとこの子はしばらくの間」で取り上げた、姿が見えなくなってしまった女の子・ニンニにたいしてのもの。

「おこることもできやしないんだわ。それがこの子のわるいとこよ」
 ちびのミイはそういうと、ニンニのそばに近づいて、こわい顔をしてつづけました。
「あのさ、たたかうってことをおぼえないかぎり、あんたは自分の顔を持てるわけないわ。ほんとよ」

「目に見えない子」『ムーミン谷の仲間たち』(pp.166-167)


あるいは、空き地のアリを、ミイが「退治」したと知って衝撃を受けるムーミンに言い放ったことば。

 どっちにせよ、あんたはあたいがアリになにをするか、ちゃんと知っていたはずよ。あたいがそれを口に出さないことを、願ってただけだわ。あんたったら、ほんとに自分自身をだますのがじょうずね!

『ムーミンパパ海へいく』(p.143)


とはいえミイは、「おかしい」と感じたことを口にしたまでであり、相手の心をいたずらに傷つけようとしたわけではありません。ニンニへの厳しい一言は、つらい体験ゆえに縮こまっている彼女の気持ちを、揺り動かす意図もあってのことと思われます。また、「自分自身をだますのがじょうず」とムーミンの痛いところを突いたのちには、「あんた、そんなになんにでも心をいためることはないわ」(同上・p.187)と声をかけています。

自分が違和感を覚えたことは、ずばっと指摘する。そのせいで相手から嫌われたとしても、もとより「ひとりでやっていける」ミイは、動じません。

 ちびのミイはいつでも、自分ひとりでたのしむことを知っていました。自分がなにを考えようと、春がどんなに好きであろうと、それを人に話す必要を少しも感じなかったのです。

『ムーミン谷の冬』(p.168)


「人にどう思われるか」を気にするあまり、自分の本心を抑えたり、相手に調子を合わせたりしがちな自分。ちびのミイのような「芯の強さ」を、少しずつでも身につけたいところです。

 

⑨生きるなんて、だれにだってできるじゃないか

「ヨクサルがあんなに無関心なのは、おかしいと思わないか?」
 フレドリクソンの返事はこうでした。
「ふむ、もしかしたらまるっきり反対で、ヨクサルはあらゆることを気にかけているのかもしれないよ。落ちつきはらって、ほどほどにね。
 ぼくたちは、一つのことばかり考えてしまうんだなあ。きみはなにかになりたがってる。ぼくはなにかを作りたいし、ぼくの甥は、なにかをほしがっている。それなのにヨクサルは、ただ生きようとしているんだ」
「生きるなんて、だれにだってできるじゃないか」
 と、わたしはいいました。
「ふむ」
 と、フレドリクソンはいったきり、いつもと同じようにだまりこくって、ノートに夢中になっていました。

『ムーミンパパの思い出』(pp.116-117) 


ムーミンパパが、自身の幼少期から、ムーミンママと出会うまで冒険の数々をつづった「思い出の記」の一節。「よく生きるとは」といった問いを投げかけられているようで、心に残りました。


この「思い出の記」においては、若かりし日のムーミンパパと、スナフキンの父・ヨクサルの「生きる態度」が、鮮やかな対照をなしています。


あるがまま、気の向くままの暮らしに満足して生きるヨクサルと、あらゆる物事を「体験し、考え、そうして、それを自分のものに」(同上・p.117)したいと望んでいるムーミンパパ。ムーミンパパに言わせれば、「ただ生きようとしている」だけのヨクサルは、だらしがない。ひるがえってヨクサルにしてみると、ムーミンパパのような生き方をしていては、心の休まるひまがない。いずれも、筋が通っているように思えます。

結局のところは、どちらも大切。「状況に応じて、意識的にバランスを取ろう」と思い至った一節です。

*意欲に燃える若きムーミンパパも、少なくとも家庭を持ったのちには、ヨクサル流の在り方を取り入れているように見えます。以下は皮肉にも、「水平線にたどりつこうとしている」(同上・p.102)、つまり、たどり着くことのない場所を目指し続ける(非ヨクサル的な)ニョロニョロ」たちとともに、ボートで沖へ出た際の一節。とはいえニョロニョロにしてみれば、休みなく漂うことこそ「あるがまま」なのかもしれません。

 こんなにのんびりとたのしい思いをしたのは、ムーミンパパの一生でも、はじめてでした。自分に対しても、ほかのものに対しても、なにかをことばにしたり、説明したりする必要がないというのは、まったくすばらしいことではありませんか。ピタピタいうボートの下の波音を聞きながら、ただじっとすわって、水平線を見ていればよかったのですものね。

「ニョロニョロのひみつ」『ムーミン谷の仲間たち』(p.182)

 

*スナフキンのお父さんらしい「ヨクサル」の名言はこちら!

 有名になるなんて、つまらないことさ。はじめはきっとおもしろいだろう。でも、だんだん慣れっこになって、しまいにはいやになるだけだろうね。メリーゴーラウンドに乗るようなものじゃないか。

『ムーミンパパの思い出』(p.93)

 

⑩ものごとって、みんなとてもあいまいなのよ

 わたし、オーロラのことを考えてたのよ。あれって本当にあるのか、あるように見えるだけなのか、だれも知らないのよね。
 ものごとって、みんなとてもあいまいなのよ。まさにそのことが、わたしを安心させるんだけれどもね。

『ムーミン谷の冬』(p.30)


スナフキンと肩を並べるほど、透徹した思考の持ち主・トゥーティッキのことば。彼女はムーミンにたいして、別の場面で下記のようにも語っています。

 雪って、つめたいと思うでしょ。だけど、雪でこしらえた家に入ると、あったかいのよ。雪って、白いと思うでしょ。ところがピンク色になることもあれば、青い色になるときもあるわ。どんなものよりやわらかいかと思うと、石よりもかたくなったりするの。ぜったい、なんてものはないのよね。

『ムーミン谷の冬』(pp.34-35)


たしかに、物事は「みんなとてもあいまい」。オーロラや雪、空や海のように変化するうえ、個々の感覚や理解力には限界があるので、よく知っているはずの家族や友だち、自分自身のことさえ、わかっている「つもり」でしかなかったと驚くことがあります。

「あいまい」というと、「不十分」や「わかりにくい」といった後ろ向きな印象もありますが、究極的にはそれが「事実」で、ごく当然のことなのだと考えると楽になります。また、たとえば「絶望的」と感じる状況に陥ったとしても、自分の「理解」も「感情」も、確固たるものではないと知っていれば、気持ちにゆとりが生まれます。


理解することを投げ出すでもなく、わかり得ないという現実を嘆くでもない。「みんなとてもあいまい」で、それこそが「わたしを安心」させてくれる。日々、朗らかに生きていくため、胸に刻みたいことばです。


*『ムーミンパパ海へいく』にて、「海のひみつ」を突きとめようと躍起になっていたムーミンパパも、海が従っている法則は理解しようがないし、そうする必要もないのだと悟った(言い換えれば「あいまいさ」を受け入れた)とたんに、心が晴れます。「海を好きになるには、それを理解しなければならない」と思いこんでいたところが、「自分が海を好きなら、それを理解する必要はない」と、気がついたのです。

 ほら、海はときにはきげんがよく、ときにはきげんがわるいが、それがどうしてなのか、だれにもわからないだろ。見えているのは、水の表面だけだからね。ところがもし、われわれが海を好きなら、そんなことはどうでもよくなるんだ。いいことばかりじゃないがわるいことばかりでもないさ……。

『ムーミンパパ海へいく』(p.268)


*こちらも、トゥーティッキの名言。主体的に生きることや、他人の「可能性」を信じ、余計な手出しをしないことの重要性を教えてくれます。後者については、「自分がなんとかしなければ」といった固定観念を手放すことで、「心の平安」が得られそうだと感じました。

 どんなことでも、自分で見つけださなきゃいけないものよ。そうして自分ひとりで、それを乗りこえるんだわ。

『ムーミン谷の冬』(p.170)

 

余談:ムーミンパパの好きな作家

ちなみに、ムーミンパパお気に入りの作家のひとりは、私も大好きな「ミステリの女王」こと「アガサ・クリスティー」のようです。

*「アガサ・クリスティー」の関連記事はこちら!

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その根拠は、「コミックス」シリーズの以
下2話にて、ムーミンパパがクリスティー作品を携えていること(残念ながら、作品名までは描かれていません)。

トーベ・ヤンソン自身が
クリスティー作品を愛読していたかどうかは不明ながら、好きな作家の作品に、また別の好きな作家の名前が登場したことに胸が躍りました

  1. 「預言者あらわる」『ムーミン・コミックス(第5巻)』
  2. 「彗星がふってくる日」『ムーミン・コミックス(第9巻)』

 

「おおらかさ、友情、生きるよろこび」

結びとしてご紹介したいのは、小説シリーズの事実上の最終話でありながら、ムーミン一家が登場しない(言及されるのみの)異色作『ムーミン谷の十一月』の一節です。

一家不在のムーミン屋敷で開かれたパーティーの席上、仕切ることが好きなヘムレンさんは、以下のような気持ちのこもった挨拶をします。

拍手してくださる相手は、ぼくではないんです。ムーミン一家に感謝の気持ちをしめして、三十秒間、せいしゅくにしてください。ぼくたちは、あのひとたちの食料を──つまり、食料の残りを食べているんです。あのひとたちの木の下を歩き、おおらかさや友情、生きるよろこびといった、あのひとたちの作ったふんいきの中にひたってくらしているんですからね。

『ムーミン谷の十一月』(p.199)

 
おおらかさ、友情、生きるよろこび。これらは、いままで取り上げた名言のみならず、「ムーミン」世界の基調音、ひいては作者トーベ・ヤンソンの人間性や人生観を、的確にあらわしたことばだと感じます。

そこで思い出すのは、
小説シリーズ中、ひときわ謎めいた存在「モラン」のこと。ふれたものはなんでも凍らせてしまう女性・モランからは、ムーミンママでさえ、下記のように語って距離を置きます。

あのひとは、雨か暗闇のようなものか、でなければ、通りすがりによけなければならない石のようなものよ(中略)モランと話をしてはいけないし、あのひとのことを話してもいけないのよ。でないと、あのひとはもっともっと大きくなって、追いかけてくるわ。

『ムーミンパパ海へいく』(pp.40-41)


寒さや恐怖といった、あらゆる「不都合」を象徴していると思われるモラン。ところが心やさしいムーミンは、『ムーミンパパ海へいく』にて、たとえ一時であれ、彼女と絆らしきものを結ぶのです。

本記事を書きながら、私が「ムーミン」に惹かれてやまないのは、キャラクターたちのかわいらしさはもちろん、おおらかさと友情、そして、生きるよろこびといった
「ふんいき」が心地良いからだと気がつきました。これからも日々、ムーミングッズや小説シリーズにふれ、つまり「ふんいきの中にひたって」暮らすことで、その「深さ」を心に染みこませる所存です。

*以下は、1946年、トーベ・ヤンソンが友人のエヴァ・コニコフに宛てた手紙の一節です。苦痛をも「豊かさ」の源泉ととらえる、最後の飾らない一文にしびれます。実名で反戦を訴え*1、同性愛が違法であった時代に女性とも愛を育んだトーベ。「本心」に従うためとはいえ、はたして自分に同じ行動が取れるだろうかと、頭が下がる思いです。

私は完全なレズビアンではないと思う。ヴィヴェカ以外の女性を好きになるなんて考えられないし、男性に対しても今までと変わらない。いいえ、男性との関係は、前よりもよくなっている。すべてがシンプルになったおかげで毎日機嫌よく過ごせている。以前よりもゆったりとした気分(中略)アートスを今度こそ失ってしまうかもしれない……大いなる喜びと苦しみの中で私は生きている。エヴァ、人生って、本当に豊かなものね。

『ムーミンの生みの親、トーベ・ヤンソン』(p.126)


今回は以上です。読んでくださって、ありがとうございました! 

 

<今日のISSEKI>

グッズや小説にふれて、「ムーミン」たちの在り方に共振する。

*1:以下、『小さなトロールと大きな洪水』の解説文より。「月刊政治風刺誌『ガルム』(北欧神話にでてくる死者の国の番犬の名前)の風刺画を担当して、ガルムの名にふさわしく、戦争を糾弾し、好戦的な政治家にかみつきほえたてる風刺画家として知られていました」(p.106)