本記事では、大愚元勝(たいぐ・げんしょう)監修『人生のあらゆる悩みを2時間で解決できる! ブッダの教え 見るだけノート』の感想をまとめます。
前回の記事(「仏教」と「認知行動療法」の共通点3つと、心休まるクールな教え。2024年ベスト本『自分という壁』感想まとめ)にてご紹介した、大愚和尚の著書『自分という壁』がとても勉強になったため、続けて、本書を手に取りました。
イラスト中心、かつ、1つのテーマにつき見開きの2ページで完結するシンプルな構成。
さくさく読み進めながら、よりよい「生き方」や「人間関係」へとつながる、新たなヒントを得ることができました。
そんな「気づき」や「学び」を定着させるためにも、特に印象に残った3点を、自分なりに整理しようと思います。
要点をつかみ損ねていたり、誤った解釈をしていたりする箇所もあるかと思います。あくまで「個人の感想」ですので、「ご参考程度に」ということでお願いいたします。
なにかしらのお役に立てれば幸いです!
目次
定着させたい「学び」3点
①最重要点は、自分の人格を高めること
筆者が、ぜひ定着させたいと感じた1つ目の学びは、以下です。
仏教で最も大事にされるのは、自分の人格を高めることです。(p.107)
前回の記事にてご紹介した『自分という壁』を読み、仏教とは、自分の心をおさめる、あるいは苦しみを減らし、心おだやかに生きるための「思考法」であると知りました。
同じく、本書でも、冒頭に以下の一節が掲げられています。
「苦を手放し、明るく生きる」
これこそがブッダの教えです(p.4)
「自分の人格を高めること」(p.107)という表現が印象に残ったのは、仏教がめざす、そして自分がめざしたいと思う、「苦を手放し、明るく生きられる人」をはじめとする下記のような人物像が、「人格を高める」の一言に集約され、より明確になったからです。
- 苦を手放し、明るく生きられる人
- そのための「智慧」を育もうと努力できる人
- 他者への思いやりを持った人
*「智慧」については、前回記事の「③『智慧:現実思考』を磨くことを重視する」にて、詳しく取り上げています。
「仏教で最も大事にされるのは、自分の人格を高めること」(p.107)。
この部分だけを読むと、ともすれば「自分だけが良ければそれでいい」という「利己主義」な印象を抱きかねません。
しかし、そうではないという補足をしつつ、残り2点の学びをご紹介します。
②人格を高めるために「自分」を大切にする
仏教における最重要点は、「自分の人格を高めること」(p.107)。
ぜひ定着させたいと感じた2つ目の学びは、自分の人格を高めるうえで、「自分」を大切にすることは欠かせない、という教えです。
自分の人格を高めるためには、自分を大切にすることが必要です。
そして自分を誰よりも大切にできるのは自分自身です。(p.116)
上記の内容が心に響いたのは、「自分を大切にする」ことを、「余裕があればやること」と誤って認識していたために、後回しにしがちだった自分に気がついたからです。
本書では、「自分を大切にする」とはどういうことかが、以下のように説明されています。
『ブッダの 真理のことば・感興のことば』には、「自己を愛しいものと知るならば、自己をよく守りなさい」という言葉が紹介されています。「愛しい」とは「大切」という意味で、「守る」とは他者からの攻撃ではなく、自分で自分の心を汚したり傷つける「比較」「嫉妬」「恨み」「怒り」といった悪感情から自分を守りなさい、という意味です。(pp.116-117)
つまり、ここで言う「自分を大切にする」とは、「自分の悪感情から自分を守ること」。
このことが「人格を高める」うえで不可欠なのは、前章でも少し触れた「智慧」が、「自分の悪感情」によって曇るのを防ぐためと考えます。
疲れているときに休息を取ったり、自分の好きなものを買ったりと、「自分を大切にする」方法は様々です。
これを、とりわけ「自分の悪感情から自分を守ること」ととらえて、自分の心の状態を見つめ、「悪感情」の予防や解消につとめることで、自分をいたずらに傷つけず、かつ、人格を高めていくための下地をつくる。
このことは、「できればやったほうがいいこと」どころか、「最優先でやるべきこと」だったと反省しています。
勉強や仕事の集中力アップのため、机の上の片づけや掃除をするように、「心を整えたり、悪感情を掃除する」(p.117)ことも忘れずにいよう、と感じました。
*「悪感情」の手放し方については、前回記事の「②『苦しみの原因=自分の心』に注意を向ける」にて、詳しくご紹介しています。
それは「甘え」ではないか?
自分の人格を高めるために「自分」を大切にする。
この「自分を大切にする」ことに対して、以前の筆者は、「甘え」や「怠け」「成長できなくなってしまう」といった、マイナスの印象を持っていました(詳しくはこちら!)。
しかし、それはもちろん、誤った認識です。
「実際にはできるのにやらない」ことと、「人格を高める努力を続けるために、自分を労わる」ことは別物だからです。
「自分の心身がどれだけ疲弊していても、意志の力さえあれば、常に努力を続けられる」というのは、あくまで理想論。
「自分を大切にする」こと、とりわけ「自分の悪感情から自分を守る」ことをなおざりにしては、人格を高めるための取り組みを継続することはできません。また、そもそも「悪感情」と「高い人格」とは矛盾します。
適正の範囲内であれば、「自分を大切にする」ことは不可欠。
ポイントは、「自分の人格を高める」という、仏教における最重要点を前提とすることです。
それによって、自分を過度に甘やかしたり、反対に、ないがしろにして心身を消耗したりすることなく、「適度に」自分を大切にすることができます。
自分の人格を高めるために「自分」を大切にすることは、決して「甘え」や「怠け」ではなく、むしろ、持続的かつ前向きな「努力」に通じる、ということです。
③人格を高めるために「他者」を大切にする
「自分の人格を高めるためには、自分を大切にすることが必要」(p.116)。
加えて、本書では、自分の人格を高めるために「他者」を大切する、という教えも説かれています。
これが、ぜひ定着させたいと感じた、3つ目の学びです。
仏教では、人に「与える」ということをとても大切にしています。それは、人に何かを与えられる人になることを目指して言葉や行動を善いものにしていくことで、自分の心が磨かれ、人格を高めることができるからです。(p.60)
前章「②人格を高めるために『自分』を大切にする」の内容とも共通することですが、重要なのは、あくまで「自分の人格を高めるために」他者を大切にする、という点です。
仏教では人に与える「利他の精神」を重視していますが、利他とは「人のために生きる」こととはちがいます。たとえば、子どもを育てたり、年老いた親の世話をする人で「その人たちのために生きている時期」がある場合、子どもが独立したり親が亡くなったりすると、自分の生き方を見失って途方に暮れてしまうことがあります。このように「自分に何も残らなくても相手にすべてを差し出す」ことを促すものではありません。仏教で最も大事にされるのは、自分の人格を高めることです。人に何かを与えるというのも「人生を自分自身のものとして善く生きる」ためのひとつの方法でしかありません。自分の人格を高めるための利他は、自分のために行うことであると理解していれば、「自分のすべてを捧げる」などという誤った道を選ばずに済むでしょう。(pp.106-107)
「自分の人格を高める」という前提を持つことで、上記の一節や以下の例のように、やり過ぎたり、反対に、やらな過ぎたりすることもなく、他者を「適度に」大切にすることができます。
- 他者のために無理を続けて心身をすり減らしたり、「お返し」がないことに腹を立てたりした結果、「利他」が継続できなくなる
- できるはずの「利他」を、意識的・無意識的に見逃す
持続的、かつ前向きに「他者」を大切にするうえでの「指針」として、「自分の人格を高めるため」という前提を、ぜひ心に留めておきたいと感じました。
それは「利己主義」ではないか?
人格を高めるためとはいえ、「自分」のために「他者」を大切にするという教えは、「利己主義」あるいは「打算的」とも取られかねません。
しかし実際のところ、「他者のために」と無理をしてまで自分を捧げることには、前章でも触れたように、「心身の健康」や「持続性」の点で問題があります。
「他者」の気持ちを顧みず、自分の利益「だけ」を考慮するわけではないことから、「自分の人格を高めるために『他者』を大切にする」との教えは「利己主義」でも「打算的」でもない、と考えます。
「自分」として生きている以上、その「自分」の生存や幸福をまず考えるのは、自然なことです。自分のすべてを投げ打って「他者」にひたすら尽くせるというのは、理想論。
それが継続できているように見える人も、実際には、「他者貢献感」や、成長しているという達成感など、何かしらの「プラス」を得ているのではないかと思います。
自分の人格を高めるために「他者」を大切する。
このことは「利己主義」や「打算」ではなく、むしろ、それらから離れ、持続的かつ前向きな「利他」を実践していくための教え、ということです。
周りの人が幸せであるようにと願い、人に何かを与えられるような自分であろうと心がけることで、人格が磨かれるとともに、周囲との関係も良好なものになるのです。見返りを期待したり何を得られるかを考えるのではなく、まず与えることを何より優先しようというのが、周りの人も自分も本当の幸せに近づくことができる、正しいあり方だと言えます。(p.47)
*「甘え」「利己主義」などの厳しい(誤った)考えによって自分を不必要に制限しない、という学びは、認知行動療法のカウンセリングを通して得たことです。詳しくは、以下の記事の「2. 『自分の本心に従う』にあたり、私が感じていた抵抗」にて。
まとめ:「自由」とは、自分に由(よ)ること
「自分の人格を高める」という指針があれば、自分を「適度に」大切にすることができます。
そして自分の心が安定していれば、同じく「自分の人格を高める」前提で「他者」に対しても親切にしやすくなり、誰かの役に立てたと思うと、「自分」もまたうれしい気持ちになる。
そうしているうちに、気がつけば「自分」と「他者」の区別があいまいになり、どちらをも大切にできている、ということになるのだと思います。
とはいえ、「自分の人格を高める」という最重要点を忘れず、それにかなう選択とは何かを考え、判断や行動をし続けることは、簡単ではありません。
しかし、「苦を手放し、明るく生きる」(p.4)ためには、そうした自律的な生き方が欠かせない。
また、それこそが本当の「自由」であることも、本書から学びました。
ここで言う「自由」とは、自由気ままに好き勝手にしていい、ということではなく、執着やしがらみなどから離れて「自分に由(よ)る」=自分を拠りどころとして生きること。(pp.64-65)
たとえ少しずつでも、実践していこうと思います。
*蛇足ですが、今回の記事を書くことで、「利他」に関するこれまでの考えが整理できた、と実感しています。
他者に貢献しようときこそ(矛盾するようだが)自分を大切にするべきだ。
— アサミヤ(ISSEKI) (@asamiya_isseki) 2021年8月6日
自分を犠牲にして貢献できても満足感は一瞬で後には虚しさが残る。自分の喜びを「通した」他者貢献は好循環を生み持続・発展しやすい。
「他人のために生きる」ことは(自分の感情の正負によって)重荷にも精神的支柱にもなる。
どんな格言にも #自分向けの調整 をする余地はある。
— アサミヤ(ISSEKI) (@asamiya_isseki) 2021年8月9日
例えば「他者貢献」は自分を犠牲に「できてしまう」少数派が苦しむ一因にもなる。
「自分が苦痛を感じない程度」という大半にとっての当然(ゆえに言語化されない)が当然でないために抜け落ち、どこまでも「貢献」して消耗する危険があるからだ。
今回の記事は以上です。
読んでくださってありがとうございました!
<今日のISSEKI>
「自分の人格を高める」ために、「自他」を大切にする。